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大阪地方裁判所 平成6年(ワ)8181号 判決

原告

今成淳一

(ほか一三名)

右原告ら訴訟代理人弁護士

吉村信幸

被告

株式会社リンク総研

右代表者代表取締役

小林忠嗣

右訴訟代理人弁護士

三好徹

吉田哲

竹内義則

星隆文

根本雄一

渡辺昇一

藤川浩一

主文

一  被告は、原告今成淳一に対して金六七二万〇二九六円、同岩沢忠昭に対して金一三万六一七九円、同岡田正芳に対して金七五万三七六八円、同雄山誠子に対して金三一万九五二八円、同加岳井未葉に対して金七万七七二一円、同喜多純子に対して金八六万一一七三円、同北村友紀に対して金二六万七八五九円、同佐藤三津子に対して金二九万三四九四円、同新堀日出樹に対して金二七万四〇五三円、同美馬亜矢子に対して金二九万三四九四円、同三宅由美に対して金一三万五九三三円、同安田多花子に対して金一五万〇八七一円、同山口晶子に対して金七万七七二一円、同山本真由美に対して金三二六万九八六〇円及び右各金員につき、原告北村友紀については平成六年五月一日から、同三宅由美については同年六月一日から、その余の原告らについては同年七月一〇日から、それぞれ支払いずみまで年五分の割合による金員を支払え。

二  訴訟費用は被告の負担とする。

三  この判決の第一項は、仮に執行することができる。

事実及び理由

第一  当事者の求めた裁判

一  請求の趣旨

主文同旨の判決並びに仮執行宣言

二  請求の趣旨に対する答弁

1  原告らの請求をいずれも棄却する。

2  訴訟費用は原告らの負担とする。

第二  当事者の主張

一  当事者間に争いのない事実

1  被告は、平成三年三月二一日、株式会社ベンチャー・リンク(以下「ベンチャー・リンク」という。)の一〇〇パーセント出資により、企業経営診断等を目的として設立された会社である。被告及びベンチャー・リンクは、株式会社日本エル・シー・エー(以下「エル・シー・エー」という。)を中心とするLCA―Jグループに属しているが、ベンチャー・リンク、エル・シー・エー及び被告の代表者には、いずれも小林忠嗣が就任している。

2  原告らは、被告の従業員であったが、各原告の入退社日等の経歴は、別表〈略、以下同じ〉(1)記載のとおりである(なお、原告らのうち、入社時期が平成三年三月二一日より前の者は、エル・シー・エーあるいはベンチャー・リンクに入社した後、被告に転籍した者であるが、被告における退職金の算定においては、右エル・シー・エー、ベンチャー・リンクの在籍期間を通算して、被告における在職期間を定めるものとされていた。)。

3  被告の退職金規定(以下「本件退職金規定」という。)は、別紙記載のとおりであり、本件退職金規定一三条によれば、被告は、退職者に対し、所定の退職金を退職後七日以内に一括払いするものとされていた。

4  被告は、原告ら各自に対し、退職金として、別表(2)会社支給額欄記載の各金員を支払った。

二  原告らの主張

1  本件退職金規定七条には、「勤続年数別支給率は勤続年数に次の倍率を乗じたものとします。勤続年数は小数点以下二桁目を四捨五入し、小数点以下一桁までの値を使用します。」と規定し、これに続けて表を設け、勤続年数を三年未満が〇・五、三年以上五年未満が〇・七、五年以上が一・〇の三段階に分けてそれぞれ倍率を定めていた。これを前提として、原告ら各自の退職金を計算すると、別表(2)記載のとおりとなり、原告らが支給を受けるべき退職金額は、同表退職金額欄記載の各金額となる(なお、原告今成淳一の副課長在職期間については、課長に準じるものとし、算定基礎額を課長と同額の二〇万円として計算した。)。

2  しかるに、被告は、前記のとおり、同表会社支給額欄記載の各金員を支払ったにすぎないのであるから、被告は、原告らに対し、同表残金(請求金額)欄記載の金員をそれぞれ支払う義務がある。

3  よって、原告ら各自は、被告に対し、請求の趣旨記載のとおり、未払退職金及び前記退職金の弁済期の後である各年月日(各原告の退職日の一〇日後)から支払いずみまで民法所定の年五分の割合による遅延損害金の支払いを求める。

三  被告の主張

1(1)  本件退職金規定七条の記載は、誤記であって、その本来の趣旨は、「勤続年数別支給率は、勤続年数に応じて次のように定める。」というものである。そして、被告が原告らに支払った退職金(別表(2)会社支給額欄記載の各金員)も、右を前提として、算出したものである(なお、原告ら主張の前提に立った場合、各原告の退職金が同表退職金額欄記載の金額になることは認める。)。

(2)  本件退職金規定七条は、エル・シー・エーで作られたものが、ベンチャー・リンクを経て、被告に引き継がれたものであり、エル・シー・エー及びベンチャー・リンクも、同条とほぼ同じ文言の退職金規定を置いていた。エル・シー・エーがこのような規定を設けてしまったのは、単なる過誤であり、実際の退職金計算は、被告主張の計算方法に基づいて行われていた。そして、エル・シー・エーにおいて、特段の問題もなかったことから、ベンチャー・リンク及び被告も厳密な注意をもってチェックすることもなく、右規定を含めて、エル・シー・エーの退職金規定を、そのまま引き継いだのであるが、ベンチャー・リンク及び被告においても、これらの規定の解釈は、右エル・シー・エーにおけると同様、被告主張の計算方法によるものとして、運用されていた。

このように、エル・シー・エー及びベンチャー・リンクはもとより、被告も、原告ら以外の退職者に対して、被告主張の計算方法に基づき、退職金を支給していたが、これまでに退職者や従業員から苦情が述べられたことはない。また、本件紛争が生じたことを契機に、被告は、本件退職金規定七条の記載を被告主張のような内容に改めたが、その際、従業員は、異議なく応じている。さらに、エル・シー・エー及びベンチャー・リンクも、同様の改定措置を講じたが、従業員との間では、何らの紛争も生じていない。

(3)  仮に、原告ら主張のような解釈を前提とすれば、在職期間が長い従業員に対する退職金は、常識に反した莫大な金額に及ぶことになり、その一事をもってしても、原告らの主張の不当性は明らかである。

(4)  以上のとおり、本件退職金規定七条の記載は誤記であり、実際の運用も、被告主張の解釈に基づいて行われてきたのであるから、同条の規定は、被告主張の解釈の範囲内においてのみ効力を有するというべきである。

2(1)  仮に、本件退職金規定七条が原告ら主張のとおり解釈されなければならないとしても、前記のとおり、被告には、そのような規定を設ける意思がなかったし、一般人を基準にしても、そのような規定を設けることはあり得ないというべきであるから、本件退職金規定七条には、要素の錯誤があり、無効である。

(2)  また、前記のとおり、本件退職金規定七条は、エル・シー・エー、ベンチャー・リンク及び被告において、被告主張の解釈を前提に運用されてきたことに鑑みれば、被告においては、同条の形式的記載と異なる労使慣行(被告主張の計算方法に基づいて算出した退職金を支給するとの慣行)が成立しているというべきである。

四  原告らの反論

1  仮に、本件退職金規定七条につき要素の錯誤があったとしても、被告は、充分な注意を払うことなく、同条の規定を置いたのであるから、重大な過失がある。このことは、被告の営む業務が企業経営診断等であり、他社の就業規則や退職金規定等に対する助言を含むものであることに照らせば、明らかである。

2  被告は、設立後日が浅く、原告ら以外の退職者も数名にすぎないのであるから、明文の退職金規定と異なる慣行が成立しているとは到底いえない。

また、エル・シー・エー及びベンチャー・リンクは、法律上被告とは別個の法人格を有する会社であるから、仮に、エル・シー・エー及びベンチャー・リンクにおいて、被告主張のような取扱いが行われていたとしても、これを被告における慣行成立の根拠とすることはできない。

五  被告の再反論

退職金規定は、従業員が入社する際、さほど重視しない性質のものであるうえ、原告らは、被告を退社するにあたって、本件退職金規定七条の形式上の文言と異なる取扱いが成されていることの説明を受けている。

これらの事情に照らせば、原告らは、民法九五条の規定による保護を受けるべき正当な利益を欠くというべきであるから、原告らの重過失の主張は、権利の濫用として許されない。

第三  証拠

証拠関係は、本件記録中の証拠関係目録記載のとおりであるから、これを引用する。

第四  当裁判所の判断

一  まず、本件退職金規定七条の解釈につき、検討する。

1  前記当事者間に争いのない事実、(証拠・人証略)の結果並びに弁論の全趣旨を総合すれば、次の事実が認められる。

(1) エル・シー・エーは、昭和三九年に設立された会社であり、ベンチャー・リンクは、昭和六一年に設立された会社である(ただし、ベンチャー・リンクについては、他の休眠会社に吸収合併された形式をとったため、登記簿上の設立は昭和五六年とされている。)。被告は、エル・シー・エーの経営開発部とベンチャー・リンクの顧客サービスセンターの二部署を併せて、平成三年三月二一日に設立された企業の経営診断等を業とする会社で、当初の従業員は、ほぼ同数のエル・シー・エー及びベンチャー・リンクの各出身社員から構成されていた。

エル・シー・エーは、ベンチャー・リンクの株式の約一八パーセントを保有し、ベンチャー・リンクは、被告の全株式を保有している。そして、被告、エル・シー・エー及びベンチャー・リンクは、エル・シー・エーを中核としたLCA―Jグループと称する企業グループを形成していた。

(2) 被告、エル・シー・エー及びベンチャー・リンクは、退職金規定の勤続年数別支給率について、本件退職金規定七条と同旨の規定を置いていたが、これは、エル・シー・エーの関連企業であるベンチャー・リンク及び被告が、特段の問題なく運用されていたことなどから、エル・シー・エーの退職金規定をそのまま引き継いだ結果であった。

ただし、当時の担当者の所在が不明であるため、エル・シー・エーの退職金規定の勤続年数別支給率に関する部分が作定された経緯やその趣旨は明らかでない。

(3) 被告は、設立にあたって、就業規則や退職金規定を作定することとなり、エル・シー・エー及びベンチャー・リンクの規定をそのまま用いるとの方針のもとに、主にベンチャー・リンクの規定を基本に、被告の実情に合わせて必要な加除訂正を行い、原案を作成した。その際、右ベンチャー・リンクの退職金規定に対する疑義等が出されたことはなかったし、被告の代表者も、異議なく右原案を承認した。

(4) エル・シー・エー及びベンチャー・リンクは、その退職金規定の勤続年数別支給率に関する規定の文言にもかかわらず、おおむね被告主張の計算方法に基づき、退職者に対する退職金の支給を行ってきた。もっとも、エル・シー・エーの退職者の中には、退職金を上回る特別慰労金の支給を受けた者もいた。また、被告においても、原告ら以外の退職者に対しては、被告主張の計算に基づく退職金が支給されていたが、被告、エル・シー・エー及びベンチャー・リンクにおいては、退職金の計算方法に関して、退職者から異議が述べられたことはなかった。

(5) 被告、エル・シー・エー及びベンチャー・リンクは、本件紛争が生じたことを契機として、退職金規定の勤続年数別支給率に関する部分の「勤続年数別支給率は勤続年数に次の倍率を乗じたものとする。」との文言を、「勤続年数別支給率は勤続年数に応じて次のように定めるものとする。」と改めた。この改定は、退職金規定の表現上の誤記の訂正として行われたが、被告、エル・シー・エー及びベンチャー・リンクの右退職金規定の改変に対しては、従業員からの異議や反発はなかった。

(6) 原告今成淳一は、昭和六三年からエル・シー・エーに在籍していたが、平成三年三月、被告の設立により、被告の従業員となった。同原告は、エル・シー・エーに入社したときに、退職金規定を含む就業規則の交付を受けた。また、同原告は、被告への入社の際に、エル・シー・エー及びベンチャー・リンクからの各転籍者への公平な待遇を心掛けるとの説明を受けただけで、退職金についての具体的な説明はされなかったが、被告の退職金規定は就業場所に常時備え付けてあり、原告らを含む従業員の閲覧が可能であった。同原告は、被告が退職金規定の文言に基づいて退職金を計算しているものと考えていた。

原告らは、勤務していた被告の京都営業所の閉鎖により、平成六年に退職を表明したが、その後の同年五月末ころ、同じく退職を表明した原告岡田正芳が被告の退職金規定に基づいて計算した退職金額を確認したところ、被告から、被告主張の計算方法に基づく退職金額を示された。そこで、原告らは、協議のうえ、原告ら代理人に依頼して、被告に対する内容証明郵便で、退職金規定所定の計算方法(原告ら主張の計算方法)に基づく退職金の支払いを求めたものの、被告がこれに応じなかったことから、被告が提示した退職金を内金として受領したうえで、差額の支払いを求めていくこととした。しかし、その後の被告との協議も埒が明かなかったため、本件訴訟を提起するに至った。

(7) 被告やベンチャー・リンクにおける従業員の在職期間は比較的短く、平均して三、四年程度である。

2  前記認定のとおり、本件退職金規定七条は、「勤続年数別支給率は勤続年数に次の倍率を乗じたものとします。勤続年数は小数点以下二桁目を四捨五入し、小数点以下一桁までの値を使用します。」と規定し、これに続けて表を設け、勤続年数を三年未満が〇・五、三年以上五年未満が〇・七、五年以上が一・〇の三段階に分けてそれぞれ倍率を定めていた。

同条の規定の内容及び体裁によれば、被告の勤続年数別支給率は、従業員の勤続年数に右表に記載された倍率を乗じた数値であると解するのが文言上最も自然である。そして、同条中に「勤続年数は小数点以下二桁目を四捨五入し、小数点以下一桁までの値を使用します。」との文言が置かれているが、被告主張の同条の解釈に立った場合、右の規定は無意味になってしまうことをも考え併せれば、被告における退職金算定の基礎となる勤続年数別支給率は、原告ら主張のとおり、前記表に記載された倍率を勤続年数に乗じて勤続年数別支給率を算出することを定めたものと解するのが相当といわなければならない。

3(1)  これに対し、被告は、同条の文言は、退職金規定作成の際の過誤であり、同条の本来の趣旨は、勤続年数別支給率が勤続年数に応じて前記各倍率であることを定めたものであるから、原告らとの関係においても、同様の解釈のもとに退職金を算定すべきである旨を主張する。

そして、被告は、右主張にかかる解釈の根拠として、退職金規定を作定した被告の意図がそのようなものであったこと、原告らの主張に従えば長期間在職した従業員に支給される退職金が莫大な金額に及ぶことがあること、エル・シー・エー及びベンチャー・リンクにおいても被告と同様の退職金規定があったが、被告主張の解釈に基づいて運用されており、退職者からの異議もなかったこと、本件を契機に被告、エル・シー・エー及びベンチャー・リンクの各退職金規定を被告主張の解釈に合致した文言に訂正したが、従業員との間で問題は生じていないことなどを主張する。

(2)  しかしながら、退職金規定は、就業規則の一部として使用者と労働者との労働契約の一部を構成し、当事者の知、不知にかかわらず、拘束力を有するものであることに鑑みれば、その解釈にあたっても、一義的明確性が要求され、特段の事情のない限り、退職金規定に記載された文言に従って解釈されるべきである。そして、本件退職金規定七条は、誰の目から見ても明らかな誤記であるとはいえず、それ自体一つの意味をもった文言であることに照らせば、その解釈は、前記判示のとおり、原告ら主張のように解するのが最も文言に忠実であり、自然なのである。

(3)  さらに、前記認定のとおり、本件退職金規定の基礎となったエル・シー・エーの退職金規定が作定された経緯が不明であり、もともと右退職金規定がどのような趣旨で設けられたのかが明らかでないうえ、エル・シー・エー、ベンチャー・リンク及び被告の従業員の在籍期間が比較的短期間であり、原告ら主張の解釈によっても、退職金の額が著しく高額に及ぶ場合が頻繁に生じるとはいえない。

(4)  以上の事情に鑑みれば、被告、エル・シー・エー及びベンチャー・リンクにおいて、被告主張の解釈に基づく退職金の支給が行われてきたが、退職者や従業員から不満が出なかったことや本件訴訟を契機に被告、エル・シー・エー及びベンチャー・リンクの退職金規定が改定されたが、従業員から右改定につき異議がないことなどの点を考慮してもなお、右特段の事情があるとすることはできないというべきである。

4  以上の次第で、被告の本件退職金規定の解釈にかかる前記主張は、採用できない。

二  被告は、被告において、被告主張の退職金規定の解釈に基づく退職金支給の労使慣行が成立している旨を主張するので、右主張について判断する。

1  確かに、前記認定のとおり、エル・シー・エー及びベンチャー・リンクにおいては、被告主張の退職金規定の解釈に基づく退職金が支給されてきたし、また、被告においても、原告ら以外の退職者に対して、退職金規定の文言にかかわらず、被告主張の解釈に基づいて算定された退職金が支給されてきた。

2  しかしながら、被告は、平成三年三月に設立された会社で、前掲各証拠によれば、原告らが退職したころまでに退職した従業員で、退職金の支給を受けたのは一一名にすぎなかった。さらに、右の取扱いが労使双方の規範意識に支えられていたことが窺える事情も見出せないことに鑑みれば、これらの者が被告主張の解釈により算出された金額の退職金の支給を受けていたとしても、そのことにより、被告主張の労使慣行が成立していたとすることはできない。

3  また、被告は、エル・シー・エー及びベンチャー・リンクにおける退職金の支給実績をも併せて、被告における退職金支給の労使慣行の有無を判断すべきであると主張する。確かに、前記認定のとおり、被告とエル・シー・エー及びベンチャー・リンクとは関連会社であり、被告はベンチャー・リンクの一〇〇パーセント出資による子会社であるうえ、原告らの多くを含む被告の当初の従業員は、エル・シー・エー及びベンチャー・リンクから転籍してきた者であった。しかしながら、被告とエル・シー・エー及びベンチャー・リンクは、法律的には、別個の独立した法人格の主体であることを考えれば、エル・シー・エー及びベンチャー・リンクにおいて、退職金支給につき、被告主張のような取扱いがなされていたことから直ちに、被告における前記労使慣行の存在を認めることはできないし、さらに、エル・シー・エー及びベンチャー・リンクにおいても、そのような取扱いが労使双方の規範意識に基づいていたとする事情も窺えないのであるから、被告の前記主張は、いずれにしても、失当といわなければならない。

4  よって、被告の労使慣行の主張も採用できない。

三  次に、被告の錯誤の主張について、検討する。

1  仮に、退職金規定を設けるにつき、被告が主張するような内容の規定を作る目的で、本件退職金規定七条を作定してしまったのであれば、被告は、本来意図したものと異なる退職金規定を設けてしまったことになる。

退職金規定(就業規則)が意思表示に該当するか否かの問題は暫く措き、このような場合には、いわゆる内心と表示との不一致として、錯誤類似の問題となり得る。

2  しかしながら、前記認定のとおり、本件退職金規定は、被告設立の際に、ベンチャー・リンクの退職金規定を引き継ぐものとされ、被告にとって必要な加除訂正を経た後、被告の代表者が原案を承認したうえで作定されたのであるが、このような経緯及び被告が就業規則点検等を含む企業経営診断を業とする会社であることなどの事情に照らせば、仮に、本件退職金規定の定立に錯誤的な側面があったとしても、被告には、そのことにつき、重大な過失があったというべきである。

3  よって、被告の錯誤にかかる主張は、採用できない。

四1  被告は、さらに、従業員が入社するにあたって退職金規定をさほど重視していないこと、原告らが被告を退職する際に退職金の支給の計算方法について説明していることを理由に、原告らの重過失の主張が権利の濫用であるとする。

2  しかしながら、退職時に支給される退職金の額が従業員にとって重大な関心事であることは容易に推測できるし、また、前記認定のとおり、原告らが被告から支給される退職金の計算方法を聞かされたのは、平成六年五月末ころで、すでに原告らが被告を退職し、あるいは退職することが決定された後であったこと及び原告らと被告との退職金を巡る交渉がまとまらず、原告らは差額の支払請求を留保しつつ、内金として、被告が支給する退職金の支給を受けたことなどの事情に照らせば、原告らの重過失の主張が権利の濫用であるとすることは到底できない(なお、本件における原告今成淳一及び同山本真由美の請求額は、その在職期間に比して、いささか高額であるとの感を免れない面があることは否定できないが、いずれも権利の濫用といえる程度には至っていないというべきである。)。

3  よって、被告の権利濫用の主張も、採用できない。

五1  以上判示のとおり、原告らの主張する本件退職金規定の解釈は相当であり、これに対する被告の主張は、いずれも失当である。

2  そして、原告ら主張の本件退職金規定の解釈に基づいて計算した原告らの退職金が原告ら主張のとおりの金額になること及び被告が原告らに対し別表(2)会社支給額欄記載の金員を支払ったことは、当事者間に争いがない。

3  そうすると、原告ら主張の退職金額から被告による支給額を控除した未払退職金及びこれに対する原告らの各退職日の壱拾日後(いずれも弁済期の後)から支払いずみまで民法所定の年五分の割合による遅延損害金の支払いを求める原告らの請求は、いずれも理由がある。

第五  以上の次第で、原告らの本件請求をすべて認容することとして、主文のとおり判決する。

(裁判官 長久保尚善)

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